2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

Sponsored

  • Sponsored
フォト

PR

Sponsored Link

記事Pick Up

にほんブログ村

  • にほんブログ村

ブログランキング

無料ブログはココログ

« 春の花咲く茨城旅 偕楽園編 その2 | トップページ | 春の花咲く茨城旅 村松虚空蔵尊編 »

2024年8月18日 (日)

春の花咲く茨城旅 弘道館編

こんにちは。

久々に金曜にお休みが取れて、出かけようと思っていたのですが、台風襲来により自宅待機していたナユタです。

結局は寝てばっかりで過ごしちまった💦

こういう時、時間があったらあったで何もしないんだよなぁ。

という後悔の念に苛まれながらも、茨城旅をどうぞー!

 

Dsc_5682
水戸東照宮の後に向かったのは弘道館

幕末、第9代藩主徳川斉昭公によって作られた藩校です。

弘道館、一度は行ってみたかったんだよね。

Dsc_5687
正庁の中に入ると、最初に目についたのがこの掛け軸。

おぉ!尊攘!

この言葉で、何人の志士が命を懸けて戦ったんだろう。

Dsc_5700
長い廊下を進んでいきます。

当時の弘道館全体の敷地面積は10.5ヘクタール。

藩校としては全国最大の広さを誇っていました。

Dsc_5719
青門肖像。

門下生の肖像画が描かれています。

個性がよく出ている絵です。

ちなみに入学は15歳から、生涯学ぶべきとして40歳まで就学の義務がありました。

どれだけ水戸藩が学問に力を入れていたかが分かります。

Dsc_5720
ここでも大日本史!

揃って並んでいると、壮大な眺めです。

Dsc_5723
力強くて素晴らしい文字だと思ったら、15代将軍、徳川慶喜公の書でした!

本当に何でも出来る人だよなぁ。

Dsc_5724
敷地の外を散策。

現在の弘道館は規模が縮小したとはいえ、3.4ヘクタールの広さがあります。

Dsc_5732
弘道館も梅の名所

3月でもキレイな梅が見られて満足です。

Dsc_5741
弘道館記碑を収めている八卦堂

Dsc_5744
更に歩いていくと、弘道館鹿島神社が見えてきました。

弘道館建設の際、鹿島神宮より分祀 。

社殿は空襲により焼失しましたが、伊勢神宮の風日祈宮の建物が移築されたのだそう。

Dsc_4587_20240818002601
豪華な御朱印をいただきました!

 

o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*○o○o。

弘道館HP

https://kodokan-ibaraki.jp/

o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*○o○o。

 

Dsc_5749
少し南下して、吉田神社へ。

早速お茶目な看板が見えてきました。

Dsc_5750
御朱印の数が多い!

これは、どれをいただくか悩んでしまう!

Dsc_5755
日本武尊が東征の折、この地で兵を休ませたことに由来して造営。

御祭神はもちろん日本武尊。

この記事を書くためにHPを見てみたら、何と今年オートバイ神社が創建されていました!

Dsc_45882
御朱印は、色々悩んで桜詣の御朱印をいただきました。

 

o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*○o○o。

吉田神社HP

https://yoshidajinja.jp/

o。+..:*○o。+..:*○o。+..:*○o○o。

 

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ
にほんブログ村


一人旅ランキング


« 春の花咲く茨城旅 偕楽園編 その2 | トップページ | 春の花咲く茨城旅 村松虚空蔵尊編 »

御朱印集め」カテゴリの記事

旅日記 ③関東甲信越」カテゴリの記事

コメント

弘道館の敷地の周辺は学校とかもあったと思いますが、本当徳川御三家の一つ、徒だけあってただっ広い敷地を有していたことが分かりますよね。
水戸、また自分も茨城観光の際、再訪したいところの一つです。
吉田神社の桜詣の御朱印なかなか見ない図柄ですね♪

大樹さんへ♪
弘道館の広さ、おなじみの東京ドームで換算すると2倍以上の広さだったようです。
よく、三の丸にそれほど広大な学び舎を作ったものだと思います。
吉田神社は御朱印の数が豊富で、選ぶのに悩みました。
今だったらオートバイ神社の御朱印をいただきたかったなぁ(笑)

尊王攘夷。当時の水戸藩のエネルギーが感じられます。
あの時代、たくさんの武士が命を落としました。
時代が変わる頃の悲しさですね・・・。

マンゲンサイさんへ♪
幕末の頃のエネルギーは、一体どこから出てきたんでしょうかね。
260年も泰平の世が続いた後に、維新に向けてあれだけの人材が生まれたというのは、不思議でなりません。
その根底に水戸学があったのは間違いないと思います。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 春の花咲く茨城旅 偕楽園編 その2 | トップページ | 春の花咲く茨城旅 村松虚空蔵尊編 »